虫の音の響く前に。





「望美」
落ちてきた声に応えるように、しゃがんでいた少女が顔を上げた。
「なんですか?」
小首を傾げる望美の手にじゃれ付くように、金の毛並みがふわふわ揺れる。
「随分お前に懐いたな。」
同じ様に屈み込むと、望美にまとわりついていた金が一声鳴いて擦り寄ってきた。
「ははっ。よしよし。」
わしゃわしゃわしゃと右手で掻き回す様に頭を撫ぜる。
隣で見ていた望美は「でもやっぱり九郎さんの方が好きみたいですね。」と言って楽しそうに微笑んだ。
「どうだろうな。」
笑いながら仰いだ頭上には、真っ青な空に白い雲がゆったりと流れていた。
 
「ほら、金!取って来い!」
掛け声高らかに枯れ枝を放ってやると、振り仰いだ金が勢いよく駆け出した。
「わぁっ。早い早い!」
見守る望美が歓声を上げた。
緑の野原に金の疾風が駆け抜ける。
そうして見事に獲物を捕らえると、疲れもみせず一目散に駆け戻る。
 
投げる。走る。投げる。走る。投げる。
ざかざかと揺れる音をお供に金が駆け戻ってきた。
銜えた枝を誇るように差し出す金に、望美はころころと笑いながらじゃれついた。
ぱたぱたと尾を振る金も嬉しそうに駆け回る。
 
落つる日に重なるように伸びた影がもう長い。
太陽はもう半ばまでその姿を隠そうとしていた。
 
さわりと、風が髪を擽るのを感じた。
木々のざわめき。茜色の空。沈み行く夕日。
いつぶりかと頭を巡らせ、否、とその思いを振り解く。
 
昨日も今日も、明日も。平泉も鎌倉も、戦場でさえも。
変わることなく日は沈む。そうしてまた朝日は昇り、月は満つる。
 
日毎に移ろう景色の端々は確かにこの目にも映っていたはずだ。
ただ自分がそれを享受することを忘れていただけ。
感じる時間を失っていただけ。(生きとし生けるものだけに、唯一平等に与えられた―。)
 
ふっと詰めていた息を吐き肩の力を抜いた。
 
「暢気なものだな。」
 呟く言葉に自嘲の色がありありと見えた。
ひとしきり撫で終えていたのか、夕日の方を向いた望美がすくりと立ち上がった。
「いいじゃないですか、一日くらい。」
何でもないことのように言い置いて、「今日くらいお休みしても罰は当たりませんよ。」と言って望美は目を細めた。
すみれ色の長い髪を秋風が攫った。
横顔に静かな微笑を湛え、望美は靡くそれをそっと手で押さえた。
 
源氏の大将。源氏の神子。
輝く名に応ずるように負った責は、如何ばかりの重さか―。
 
ふるりと追いやるように頭を振った。
「そろそろ日も暮れてきた。帰るぞ。」
言ってゆるりと向けた背に足音が重なる。
「あ、待ってくださいよ!」
ぱたぱたと続く靴音に、小さく柔らかな足音も引き連れて。
 
二人の影を追い越して金が駆けてゆく。
「気をつけて帰るんだぞ!」
叫んだ声に「わん!」と返事が返されると、並んだ望美も大きく手を振って見送った。
 
「今日の夕飯は何でしょうね〜。」
ほけほけと暢気な望美の声に、「食うことしか頭にないのか、お前は。」と溜息混じりにからかい一声。
「そんなことないですよ!」
いきり立った少女を笑うと、「九郎さんなんて知りません。」と小走りに数歩追い越された。
 
先を歩く背に揺れる髪を何の気なしに眺めていると、きょろきょろと辺りを見回していた望美がくるりと身体ごと振り返った。
 
「もうすっかり秋ですね。」
「そうだな。」
 
ぽてぽてぽてとそのまま後ろ向きで歩き続ける望美に、「危ないだろう!」と声を荒げると、「大丈夫ですよ。」とけろりと笑われた。
 
「、あ!」
ぐらりと望美の身体が傾いた。
 
どきりと慌てる間も惜しんで、短く響く声が消える前にと駆け出した。
伸ばした手で力の限り引き寄せると、余った勢いを受けた望美が胸の中で「ぶぐっ。」と潰れたような声を上げた。
 
「ほら見ろ!だから危ないと言っただろう!!」
抱き寄せたまま叱り付けると、「耳元で怒鳴らないでください!」と対するように返される。
 
「お前少しは人の話を聞かないか!」
変わらず怒鳴り声を上げていると、「あの。」と態度を変えた望美がわたわたわたと慌てながら九郎を見上げた。
 
「えっと・・・この体勢はっ・・・。」
何のことだ。と問いかけた九郎は、見つめられてはたと気付く。
 
「あっ!いやこれはだな!お前を助けようとしただけであって!!」
 
突然離れた九郎を見上げて、夕日といい勝負かな。と望美は思った。
 
「助けてくれてありがとうございます。」
漏れる笑みもそのままに頭を下げると、「気をつけろ。」と憮然とした声音で返された。
まだ赤い頬を認めながら、「帰りましょうか。」と声を掛ける。
「あ、ああ。」
握ったり開いたり。
手を弄ばせ目線を泳がせていた九郎は、ずずいっと望美の前にその手を差し出してきた。
 
「・・・・・・ほら。」
「え?」
 
意図が掴めず手と九郎とを見比べる。
 
「また転ばれると面倒だからな!」
逸らすように向けられた背にぱしりと手を取られ、引かれながら望美も笑って歩き出した。
 




暮れなずむ夕日に、伸びる影二つ。
広がり始める夜の帳に、秋風がさわりと虫の声を孕み鳴り響く。
 






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(向け合った背中に)(負ったものは違えども)

2007 09 25
2007 11 14改定